親父のトホホなつぶやき

夫婦に子供二人というごくありふれた我が家の日々の出来事を、父親が情けなくつぶやきます。

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デジタルの夜明け

家鶏野鶩(かけいやぼく)
古いものよりも珍しくて新しいものをもとめること。
家鶏というのは家に飼っている鶏のことで身近なもの、古いもののたとえ。
野鶩は野生のアヒルのことで遠くにある何か新しいもののたとえ。
新し物好きなんて人も多いでしょうけど結局は古い方がよかったなんてこともあるんですよね。
コンピュータ駆使して作ったのよりも全編手描きで作ったアニメの方がいいというのがその一つです。

さて、デジタル話の最終回は数字からは離れてみましょう。
この間書いたけど、情報を何かに置き換えるのがデジタルの考え方であってその何かってぇのは数字に拘らなくてもいいといいました。
要するに伝えたい情報が第三者にある程度正確に伝わりさえすればいいんです。
で、その情報を置き換えるルールが送り手と受け手の方で分かってさえいれば情報の送受信はスムーズに行われるはずです。
例えばワープロソフト上で文字情報というのはほとんどの場合数字に置き換えられています。
そして作成した書類の情報を相手に渡す場合はこの情報が入ったメディア(USBメモリとかフロッピーディスクとか)を渡せばいいんですがこの時に重要なのは相手もこちらが作った書類を同じように見ることの出来るシステムを持っていること。
こちらがマイクロソフトのワードで作った書類を相手がアップルのアイワークで開こうと思ってもどうしようもないなんてことがあるのはそういうルールがあるから。
(今は結構簡単に開けるらしい。)
つまり英語で書かれた文書を読めるのは英語の文書が分かる人だけということです。
とにかく相手と同じシステムがあるという最低限のルールさえ守れば情報の受け渡しというのはかなり楽に行われるわけです。
これはPC上の書類だけの話ではなくて例えば昨日とりあげたCDであっても、CDを再生できる機器を持っているというのが最低限のルールだし、デジタルカメラならそれをつないでみられる機械(多くの場合はパソコンですが)、もしくは印刷できるプリンタを持っているというのが最低限のルールになります。
ではレコード(アナログ盤)はどうかというと、これまたレコードを再生できる機械(レコードプレーヤー)がなければいかんし、アナログカメラも撮影したフィルムを現像できなければ話になりません。
こうして考えてみると記録方法がデジタルであろうと、アナログであろうとお互いに同じルールを持っていなければいかんというのがあるようです。
今音楽(レコード)の話が出ましたが、絵について別の視点から考えてみましょう。
ここにリンゴを描いた静物画があります。
このリンゴの向こう側はどうなっているんだろうか、下は、上は、もしも切ったら、味はどうだ...。
絵に描かれたたった一個のリンゴもそこに描かれた以上の情報は入ってきません。
それでは手紙はどうでしょうか。
手書きであっても、ワープロであってもメールであったとしてもそこに書いてあることは、書き手によって切り取られた情報に過ぎません。
出来事全てを書くことなんて(物理的に)不可能なんです。
それでは手紙を書くのに一番大事なもの文字はどうでしょうか。
文字...ひらがなだけで考えるとですね、いろは48文字+濁音、半濁音、促音、拗音で構成されています。
なんですが、これだけで書き表せるのは東京語を元に作られた標準語だけといっていいでしょう。
東京から離れれば離れるほど話し言葉をひらがなだけで書き表すのは難しくなっていきます。
例えば近年有名になった言葉で「宮崎をどげんかせんとイカン(by東国原知事)」というのがあります。
どげんかせんとイカンとは別の言い方でどげんかせんねイカンというのがあるんですが、どげんかせんねは発音的にはの中間くらいなんですよ。
そしてもっと言うならせんねははっきりと発音されないこともあります。
ですからどげんかせねイカンもしくはどげんかせなイカンなんて聞こえることもあるかもしれません。
つまり標準語なんてぇのも全体のごく一部を切り取ってその地方(国)の代表にしているだけのものなんです。
お互いに共通の言葉(=ルール)を持っていなければ意思の疎通、情報の共有化は難しい。
何かを伝えるには、最初にお互いに共通のルールをつくりましょう、そしてそれに則って情報を記号化してやり取りしましょうということだと考えられます。
共通のルールというのは、まあこれだけは最低限おさえとかなければならないなという最大公約数的なものでしょう。
それでは、情報の共有化っていつから始まったんでしょうか。
それは人が言葉や数字という概念を持ったときに既に生まれていたんじゃないかと思います。
今ここにはないんだけれど自分は別のところに2個の木の実を持っているというのを相手に伝える時にお互いに分かる言葉かそれに似たものがなければ話は伝わりません。
そのために(その時には)一番分かりやすい伝達方法というのが生まれたはずです。
そうして生まれたものが記号(=言語)だったんでしょう。
自分の気持ちを言葉に置き換えることと、情報を記号(数字)に置き換えることがほぼ同じことであると考えるならば、デジタルとは人間が伝達手段を得た時から始まったのかもしれません。
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テーマ:日記 - ジャンル:結婚・家庭生活

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